パブロ・ラライン監督「ネルーダ(原題)」

さて、チリのパブロ・ラライン監督といえば、ジャッキー/ファーストレディ最後の使命が公開されましたが、これは、もう、ナタリー・ポートマンへの愛が満載の映画で、他の方々が色々書かれていると思うので省略。

ひとつだけ言えば、製作のダレン・アロノフスキーから話が来た時に、主演はナタリー・ポートマンじゃなきゃイヤ!と言ったと、ラライン監督がインタビューで答えていました。ジャッキーというよりナタリーだった映画でしたが、これまでとは違った一面が観られて私は面白かったです。

 さて、日本で劇場公開されるであろう「ネルーダ(原題)」ですが、先に、ラテンビート映画祭で上映されるようなので、急遽、以前書いたものをアップすることにしました。これは、本当に、色々な意味で面白い発見がある映画でした。

 <物語>

第二次世界大戦終了から3年たった1948年、詩人で共産党の上院議員のパブロ・ネルーダ(ルイス・ニェッコ)は、議会で民主主義同盟にも関わらず、労働者の権利を剥奪する政権に対して批判を強めていた。ガブリエル・ゴンサレス=ビデラ大統領は、共産党を非合法化し、ネルーダを逮捕するよう命令を出す。

捜査官(ガエル・ガルシア・ベルナル)が、ネルーダの追跡を始めるが、チリ国内で地下に潜り、住む場所を転々とするネルーダを中々、逮捕することができない。詩人の言葉に翻弄され、無能だと言われ、任務を解かれたにも関わらず、執拗に追う捜査官。

そして、ついに、アンデス越えをしようとするネルーダ一行に追いつくのだが…。

予告編(英語版)

<ラライン監督が描くネルーダ像>

本作を観たのは、今年の1月、NYのリンカーンセンター・シネマソサイエティ。

時差ぼけにも関わらず、つい、身を乗り出して観てしまいました。これは伝記映画ではない(anti-biopic)と監督自身も言っているように、史実に基づいたネルーダの物語というよりは、ちょっとドジな捜査官とネルーダが合わせ鏡のように対になって作り上げる詩的なフィクションでした。

言葉がこんなに緊張感を醸し出すものだとは!と感心した脚本を担当したのが、ギジェルモ・カルデロン。ラライン監督の前作「El Club」でも脚本を担当しています。

ワインと女性と詩を愛するネルーダを演じたルイス・ニェッコは、これまで私が勝手に作り上げていた崇高で真面目なネルーダのイメージを一気に解放し、身近なものにしました。初めは、「えっ?」と思ったのですが、良く考えると、これまでに自分が作り上げたネルーダ像って、詩やその評論を読んだものが元になっていて、どうも、日本語だと静謐というか、真摯なイメージしか湧かなかったのかもしれない、と思いました。

映画「イル・ポスティーノ」でも、主役は郵便配達員だったし、ネルーダが前面に出て来た映画を観た事がなかったことに初めて気づいたほど。でも、実は2014年にネルーダの甥っ子にあたるマヌエル・バソアルト氏が、同じ「ネルーダ」というタイトルでフィクションを初監督したのです。こちらは、史実に基づいて、ネルーダのアンデス越えまでやったのですが(というより、そのために作ったといっても過言ではないかも)、映画としては、史実に忠実だから良いって訳でもない、とまで言われたことから、ラライン監督の「ネルーダ」は撮影前から注目されていました。

でも、ここまで新鮮でぶっ飛んでいるとは!

<捜査官とネルーダの化学反応>

途中からネルーダを逮捕して自分が物語の主役になるんだ、と取り憑かれる捜査官ガエルに思いのほか感情移入してしまい、映画の世界に浸ってしまいました。映画の中では、追われるネルーダの方が、ずっと自由で、追いかける捜査官は、私生活もなく、周りから無能扱いされ、昼はネルーダを追い、夜は彼の詩を読む、といった具合に、ネルーダに囚われていきます。

これは、ちょっとガエルを見直した、というか、もう捜査官から目が離せませんでした。

ハラハラしたり、時には笑いながら、最後には、美しい風景の中で、ネルーダの詩の一節、

Por fin, soy libre adentro de los seres. 

を、捜査官に捧げたくなりました。

ま、その前に、思い切り笑ってしまいましたが…。

久々に、物語に身をゆだねて満喫できました。ネルーダのことや、詩を知らなくても、物語に身を委ねれば、二次元のスクリーンを飛び越え多次元の世界にいける。観ているもの、聞こえるものから新たな世界が生まれる。

これは、最近、忘れていた感覚でした。ああ、映画って、こんなに自由なんだ、と思いました。

<映画と詩で感じるネルーダの宇宙>

余韻に浸りつつ、映画の中に出て来る「20の愛の詩」や大いなる詩の”El fugitivo” (逃亡者)から最終章までをスペイン語で読むと、これまで以上に、多面的で言葉を信じたネルーダが浮かび上がってきます。

歴史上の重要人物、それもチリの国民的詩人を描くのは、並大抵のことではなく、監督は当初、「無理!」と思ったそうです。でも、ネルーダの宇宙を描くなら、内なる世界を描くなら可能だろうと。逃亡者の身でありながら、人生を楽しもうとするネルーダが描けたのは、ひとえにガエル演じるややこしい名前(Óscar Perchonneau)の捜査官を対抗軸に置いたおかげでしょう。名前を言うたびに間違われ、ネルーダにまで、ちょっと間抜け、と言われてしまう捜査官。

この2人が作り上げる時空間が、ネルーダの妻(メルセデス・モラン「今夜、列車は走る」)を要として、広がっていきます。まるで捜査官を操るかのような妻の言動が、現実と虚構の橋渡しているようで、2人が相対するときには、緊張感でワクワクします。追うものと追われるものとの間の緊張感だけではなく、慌てず騒がず、逃亡者としての自分たちをまるで楽しむかのようなネルーダ夫妻にハラハラしながら、1度しか観ていないので、心に残ったところを中心に書きましたが、次は、もっと詳細まで観たいと思う作品です。

きっと、また新たな発見があると思います。