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生きるためのフラメンコ「サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ」

 

日本よ、しばらくさようなら。と言ってから何と半年たってしまいました。

と書いたあとで、今チェックしてみたら、書いたと思っていた記事がアップされてなかったことに気づき、すでに8ヶ月がたっていました。そして、今日、これから久々にメキシコのグアダラハラ映画祭に行きます。

 

近況は、おいおい、書くとして、まずは現在、アップリンクで上映中の「サクロモンテの丘」 について。先月16日から19日、チュス・グティエレス監督の来日で通訳をしました。これまで、自社配給の作品には、フラメンコが出ないスペイン映画とか、タンゴがないアルゼンチン映画など、ステレオタイプを排した映画を、と思って配給してきたのですが、今回の「サクロモンテの丘」は、生活のために踊り出した人々の記憶の物語。サクロモンテと言えば、ヒターノ(※)の聖地だと思っていましたが、なんと1963年の洪水で、洞窟を追われ、グラナダ市指定のゲットーとも言われる場所に移され、生活が一変したということを初めて知りました。

それまでは、洞窟を借りて(所有している人もわずかにいたとのこと)、生活しながら、当初は、銅製品などを売って何とか生活していたところが、このサクロモンテに礼拝堂があることから、観光客がたくさん通るので、そこでフラメンコを踊るようになったとのこと。洞窟で暮らす女性たちはフラメンコの衣装を来たまま、家事をし、誰かが「踊るよ〜」と言えば、途中で家事をやめて踊り、終われば、また家事をする、といった、生活とフラメンコが密接に関わっていた場所です。

 

この映画に出て来る高齢者たち(1963年当時に洞窟に住んでいた人々)の証言から、当時の様子が赤裸々な形で浮かび上がってきます。今や子供や孫が世界的なフラメンコダンサーになっている人もいますが、当時は、観光客相手だと言われ、フラメンコ業界からも相手にされなかった。ヒターノであるということで差別され、フラメンコ業界からも差別されていた、という二重の苦しみを味わいながらも、そのカンテの中に怒りを込めたり、ユーモア溢れる歌詞で男女の営みを歌ったり、生きて行く底力を感じます。中でも女性たちが印象的。

 

すでに高齢になった人々が踊るフラメンコは、ゆったりとした、わずかな動きで生きて来た歴史を表現しているようです。当時、洞窟の中には、タブラ(板)がなかったので、石の上で皆、踊っていたそうです。それでも、一様に当時の事を幸せそうに語るのです。あんなに貧しかったのに、皆が支え合っていたので不安がなかった、と。

 

もう二度と戻ってこない、当時のサクロモンテを記録しようと、サクロモンテ歌集を作っていた案内役のクーロと監督との再会がきっかけで作られた、このドキュメンタリー。当時の様子を映し出す貴重な映像であると共に、ヒターノであることの誇りを持ちながら、彼らがパージョと呼んだ、ヒターノ以外の人々をも受け入れて来た歴史を物語ります。

 

監督によると、サクロモンテの洞窟にヒターノたちが住み着いたのは、一節には、Reyes Catolicos (アラゴン王国のフェルナンド2世とカスティーリャ王国のイサベル1世夫妻。この婚姻関係で、カスティーリャとカタルーニャ=アラゴンが統一されイスパニア王国が成立)の軍隊が、レコンキスタの時代に鉄を扱う鍛冶職人だったヒターノたちを連れて来たと言われているそうです。実は、レコンキスタの前には、グラナダは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の人々が、穏やかに暮らしていたそうで、レコンキスタで、異教徒を追放してしまったツケは、今まで及んでいます。これに関しては、いつか詳しく書きたいと思います。

 

でも、今回のドキュメンタリーを観て、久々に、ガルシア=ロルカを読みたくなりました。

 

 

 

※日本では、いつからか「ジプシー」が差別用語になり、代わりに「ロマ」という言葉が使われていて、移動民族を指す場合の総称として使われていますが、スペインではロマーニと言われ、主にルーマニアから(元々はインドから東欧へ渡った人々)来た人たちのことなので、ここではスペインで使われるヒターノにしました。

 

以前に書きかけたものを、今、発つ前に手を入れたので、誤字脱字あるかもしれませんが、まずは、復帰第一号として。