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読み出したら止まらない「夜は終わらない」星野智幸著

時間に追われる東京から離れて、浜辺の2日間で、
噛み締めながら読了した「夜は終わらない」。
(書きっぱなしですが、ネットが切れるので
まずはアップ!)
これほど、終わってほしくない物語はなかった。
星野さんの作品は、第一作目の「最後の吐息」から
読んでいるが、毎回、「おお、どこまで行くねん!」という
驚きとともに新たな境地を堪能しました。
きっとあらすじは、そここで紹介されているので、
ここでは、なぜ、そこまではまってしまったのか、
ということを書こうと思う。
この作品には「ネタバレ」なんて言葉は通用しない。
なぜなら、想像力によって読む人、それぞれの解釈が
違うと思うから。
映画でも文学でも、「こう観ろ」「こう読め」という
説明過多な作品が苦手なので、これほど、様々な部分に
読む者の余地を残してくれている作品に出くわすと、
ワクワクしてしまう。
全体を通しての主人公、玲緒奈は、複数の男から
金品を巻き上げ、疑われ始めるとあの手この手で後を
残さぬように男たちを消して来た。
でも、消すかどうかを決める前に、男に物語を語らせる。
「私が夢中になれるようなお話してよ」
ここから、まず、玲緒奈に興味がわく。
金目当てなら、あっさり消しちゃえばいいのに、
なぜ、物語を求めるのか。。。それは後々、
分かってくるのだが、私は、何も考えずに読み進めた。
死を前に最初に物語る春秋(シュンジュー)は
玲緒奈に6,000万円盗られても、ぞっこんで、自分をクズだと
思っているデイトレーダーだし、
「カワイルカ」から、「日常演劇」「フュージョン」と、どんどん物語を広げて行く
久音(クオン)は、文具会社の営業という、地味な存在だ。
クオンが語る「聞いたら二度と戻れない物語」の主人公も、見た目が
貧相な男、祈(いのる)、そう、語るのは、一般社会の中に紛れているか
はたまた、社会の外にいて、見えない人たちだ。
ラテンアメリカやヨーロッパの独立系映画では、
社会の中で聞こえない声、無視される人々を描きたい、
という監督が多々いるが、星野さんの小説にも同じことを感じた。
最初の春秋の話から、かなり面白かったので、
「え、これでダメなんですか?」と思ってしまったが、
その後の久音が語る「カワイルカ」から、もう途中で
本をおけなくなってくる。
一つの物語の中の人物が、語り始め、次にその人物の物語の
中の人物が語り始め…と、時間も空間もとけてしまったような
感覚に襲われ、どっぷりと浸ってしまうのだ。
久音は夜の間だけしか語らないので、物語の途中で、
夜が明けそうになると、次の日に持ち越される。
久音と玲緒奈の同居生活に戻ると、読んでいるこちらも、
ちょっとひと息、現実(?)に戻り、
玲緒奈と共に、夜が待ち遠しくなる。
一回目は、目次も見ないで、何も考えず、
自ら物語の世界に浸っていった。
そのうちに、「ん?この人、どこかで…」という既視感が
生まれてきても探さない。そのまま、つき進む。
私はジンとジンナの話が好きだ。
最後までたどり着くうちに、現代社会の問題が、そこここに
見えてくる。男女を交替する「日常演劇」(これは、一時期、
演劇に関わっていた人間として、実にリアル!だった)
その中の4人が互いを交換して自分の物語として
話すところで、一体、誰が誰なのか、分からなくなって来て
これこそ、ホドロフスキーがいつも言っている
「私は、あなたであり、あなたたち全員」みたいな話だと思った。
また、核融合工場の推進派と反対派が、途中から
混じり合って、一体、自分はどっちだったのか分からなくなる
という、笑っているうちに背筋が寒くなる話。(「フュージョン」)
「ええ~っ?」ということも起こるのだが、
そこでも、止まらずに読み続けた。
最後の数ページは、この物語が終わらないで欲しいと
願いながら、ゆっくりゆっくり…。
ついに最後の行を読み終わり、しばらく放心状態のなか、
ふいに、存在する者しない者、生きている人、過去に生きた人、
これから生まれてくる人、空も海も川も宇宙も、時間も世界も、
全ての境界がなくなり、融合したような感覚に陥った。
何より、野生性を失った代わりに、これだけ境界を越えることができる、
それを伝え、感じることができる「人間」が愛おしくなった。
こう書くと、とても抽象的なのだが、物語は、とてもリアルだ。
それに、時々、「ぷふっ」と吹き出すところもある。
星野さんの作品を読むと、こんなに感じてしまっていいのか、と
思うほど、五感が敏感になる。
味や匂い(臭い)や手触り、痛みまで体感してしまうのだ。
だから、私は、もう一度、読む。今度は、物語ごとに。
入れ子になったり融合したりしている物語の中を、
ひとつひとつ泳ぎたい。特に「日常演劇」から生まれてくる
物語を。
「日常演劇」の参加者、バンドネオンの音が出せる風の声を持つ丁(ひのと)が、
ミロンガを探しにブエノスアイレスに行く物語では
「ブエノスアイレスのマリア」や「ジーラ・ジーラ」を初めとする
タンゴが、ラプラタ川でショローナとアルフォンシーナが
出会う「アルフォンシーナと海」では、
歌(Llorona とAlfonsina y el mar)が流れ続ける。
そして、玲緒奈が唯一、心を許せたフェレットの名は
「トリスタン」(“トリスタンとイゾルデ”)。
読みながら、生前、埴谷雄高が、自分が宇宙を見上げる時、
宇宙にいるもうひとりの自分も、こちらを見ているんですよ、
みたいなことを言っていたなあ、と思い出した。
目の前のことに翻弄されていて、生きるのびることに必死で
見失った部分、実は、そこを認識できる人が増えてくれば、今の
危うい方向を是正できるのではないか、とさえ思う。
これだけ言葉が消費され、伝わりにくくなっている今、
言葉から受け取っているのに、言葉では言い表しにくい感情が
生まれてくるときのワクワク感を、ぜひ、体感していただければ、と思う。
そう、映画も小説も演劇も、ひと言でテーマが言えるなら、
作ったり、書いたりする必要はないのだ。
でも、言えないから、伝えられないからこそ生まれる
作品の中に、自分が伝えようとして伝えられなかったことを
見つけるとき、ため息とともに、作者に、監督に感謝する自分がいる。
そして、これだけ翻弄されている自分の中に、まだ、それを
見つける触覚が生きていたことを知った時に、また、
生きるエネルギーがフツフツと湧いてくるのだ。
夜は終わらない/星野 智幸

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アルフォンシーナと海

そして、あなたは、夢の中にいるように
眠りながら言ってしまう
海をまとって
La llorona